江戸時代に京都で起きた大火について考える中坊進二


「京都の三大大火」はとても有名です。
1708年の宝永の大火、1788年の天明の大火、
1864年の元治の大火(どんどん焼け)の
3つを合わせてこう呼ばれています。
中坊進二も中学時代に習いました。
こうした歴史の教科書にも載るような火事は、
京都や江戸にしか見られません。
その理由は、この地が集合住宅のように
住宅が過度に密集していたからとも言われています。
人口も非常に多く、ひとたび火事が起きれば、
数万もの家屋が焼失したそうです。
中坊進二には想像できませんが、
当時は市中のいたるところが大混乱だったかと思います。



京都の小学校の敷地内にて、
宝永の大火の被害に遭った寺院の土掘跡が出土しました。
見つかったのはほんの一部ですが、
土掘の中の基礎として埋められていた竹まで焦げていたことから、
当時の火事がどれだけスゴイことか伝わってきます。
他にも、様々なものが炭化した状態で見つかったそうです。

今でこそ、耐火性に優れている住宅が建てられていますが、
当時は木造100%だったので、火は簡単に燃え広がりました。
藁なども至るところに使われており、ちょっと強風が吹けば、
その火の勢いは数百メートルにも及んだと思います。
土で作った壁は簡単には燃えませんが、
周囲の火の勢いがここまで届いたことを意味しています。



明治以降に目立つ大火が起きにくくなったのは、
消防設備が整った、および、耐火性を重視した建築資材の使用、
そして、過度な密集住宅の廃止が考えられそうです。
今でいう一軒家のような家々がポツポツと目立ち始め、
また、鉄道なども出来始めたことから、京都市中に集まらなくても、
生活しやすくなったのだと、中坊進二は思っています。

中坊進二はこれからも火の取り扱いには気を付けたいと思います。